香りの言葉は「成分名」ではない
香りを言葉にしにくいのは、全員に同じ理由ではない
香りは目で指し示せないため、物の名前や記憶、比喩を借りて表現しやすい感覚です。ただし「人間は香りを言葉にできない」と一律に決めるのは正確ではありません。
MajidとBurenhultの2014年研究は、マレー半島のJahai話者と英語話者の匂い命名を比較し、言語によって香りの表現のしやすさが異なることを示しました。2018年の研究では、Jahai話者30人とオランダ語話者30人が単一分子の匂いを命名し、オランダ語話者はレモンのような出どころ中心、Jahai話者は抽象的な質を表す語を使う傾向が示されました。
これは「Jahaiの人は嗅覚が優れている」「日本語には香りの語彙がない」という結論ではありません。言語、文化、日常の環境、経験が、どの方向へ言葉を探すかに関係するという範囲で読みます。
体臭の語彙を集めても、香り全般の辞書にはならない
2025年のBierlingらのデータ研究は、17か国・13言語の2,607人から、健康時・病気・ストレス・運動後の体臭と、口・ワキ・足などの部位を表す言葉を集めました。実際の匂いを嗅がずに書くオンライン調査で、60,275件の記述から7,489種類の語を整理し、国や言語をまたいで頻出した25語の英語リスト(BOW)を作った研究です。
別の検証では、健康な61人の提供者から集めた25試料を155人が嗅ぎ、5,338件の自由記述のうち2,284件(42.8%)がBOWの25語のうち22語で表せました。これは体臭を記述する語彙を研究上の選択肢として整える材料ですが、香水・お茶・洗濯物を含むすべての香りに同じ語彙が当てはまることや、日本語の普遍的な辞書を示すものではありません。
香水レビューでは「出どころ」と「印象」が同居する
2026年のZhouらは、中国語で書かれた36種類の香水に関する29,372件のオンラインレビューを、グラウンデッド・セオリーに基づく質的分析、トピックモデル、感情分析で調べました。香りの記述は、出どころや場面を含む「対象ベース」、抽象的な質を表す「抽象」、好みや適切さなどの「評価」の3群に整理され、出どころを名指す表現が最も多かったと報告されています。
これは中国語の香水レビューという文章・文化・市場の条件で得られた分類で、実際の匂いを嗅いだ実験や、日本語の普遍的な香り辞書ではありません。同じ香りでも表現が変わるため、日常のメモでは「出どころ・場面」「抽象的な質」「評価」を混ぜず、何を感じた記録かを分ける補助線として使います。
まず使える5つの観察軸
香りの口頭伝達を調べた実験では、説明は主に既知の出どころ、強さ、快不快、香りの性質、作用の5方向に分かれました。これは普遍的な香調分類ではなく、相手と共有しやすいメモを作るための実用的な順番です。
- 出どころ:柑橘、洗った布、木、石鹸のように、似ている対象を書く。
- 性質:乾いた、粉っぽい、青い、油っぽい、温かいなど、質感や印象を分ける。
- 強さ:弱い・中くらい・強い、または近づいたときだけ感じる、という相対的な尺度にする。
- 快不快:好ましいか、苦手かを、強さとは別の欄に記録する。
- 作用:鼻に刺さる、重く感じる、落ち着く気がするなど、身体や場面への印象を書く。ただし効果の証明とは分ける。
同じ実験では説明に軸を詰め込みすぎると、相手が匂いを当てる成績が下がる傾向も報告されました。最初から長い詩や成分リストにせず、二〜三軸から始めるほうが共有しやすい場合があります。
名前を付ける前に、第一印象を残す
香りの名前や出どころは便利ですが、評価を先に決めることがあります。Herzの3実験では、一般的な匂いに自然・合成などの言語情報を与えると、快不快の評価に影響しました。香りをラベルなしで評価したときは、感覚そのものをもとにした評価になりました。
そのため、香水名や製品名を見ながら「良い香り」と記録するより、先にラベルを隠して感じたことを残し、次に名前や出どころを照合します。これはラベルが悪いという意味ではなく、感覚の記録と説明文の影響を分ける方法です。
共有用の香りメモを作る手順
- 時刻、場所、距離、換気、香りの発生源を記録する。
- 製品名や答えを見ない状態で、最初の印象を一語か二語で書く。
- 出どころ、性質、強さ、快不快、作用のうち二〜三軸を追加する。
- 数分後や場所を移した後に、同じ香りがどう変わったかを記録する。
- 他人に伝えるときは「私はこう感じた」と主観の範囲を示し、相手にも同じ評価を求めない。
たとえば「洗髪後・乾燥直後/近づくと弱く感じる/石鹸と柑橘の間/清涼感はあるが、好ましさは未評価」のように書けば、出どころの推測と強さ、快不快を混同しにくくなります。
香りが記憶や情景と結びつく仕組みに興味がある場合は、香りと自伝的記憶の補助記事が研究条件を分けて解説しています。また、複数の香りを重ねたときの感じ方については、香りを混ぜたときの感じ方の補助記事も参照できます。
ラベルの効果には二面性があることも、2026年の総説に整理されています。匂いに言語ラベルを付けることでカテゴリー学習や記憶が助けになる一方、認識の場面では言葉が元の知覚記憶を上書きしてしまう「言語による覆い隠し(verbal overshadowing)」の証拠も併存するという整理です。香りメモでも、最初の一語を残す工程と、あとから言葉で詳しく説明する工程を分けておく理由はここにあります。
参考文献
- Majid A, Burenhult N. Odors are expressible in language, as long as you speak the right language. Cognition. 2014;130(2):266–270. DOI: 10.1016/j.cognition.2013.11.004
- Majid A, Burenhult N, Stensmyr M, de Valk J, Hansson BS. Olfactory language and abstraction across cultures. Philosophical Transactions of the Royal Society B. 2018;373(1752):20170139. DOI: 10.1098/rstb.2017.0139
- Baccino T, Cabrol-Bass D, Candau J, Meyer C, Scheer T, Vuillaume M, Wathelet O. Sharing an olfactory experience: The impact of oral communication. Food Quality and Preference. 2010;21(5):443–452. DOI: 10.1016/j.foodqual.2009.11.001
- Herz RS. The effect of verbal context on olfactory perception. Journal of Experimental Psychology: General. 2003;132(4):595–606. DOI: 10.1037/0096-3445.132.4.595
- Bierling AL, Croy A, Bilem F, et al. A standardized lexicon of body odor words crafted from 17 countries. Scientific Data. 2025;12:325. DOI: 10.1038/s41597-025-04630-8 公式全文
- Zhou H, Zhou K, Zhu Z, Zou L. The language of scents: a corpus-based study of Chinese perfume descriptions. Humanities and Social Sciences Communications. 2026;13:1149. DOI: 10.1057/s41599-026-07494-4 公式全文
- Vanek N. Words and Scents: How Language Shapes and Skews Olfactory Processing. Topics in Cognitive Science. 2026. DOI: 10.1111/tops.70065. DOI
研究で示された命名・伝達・ラベル効果・体臭語彙データと、日常の香りメモの提案を分けています。ここで紹介する軸は編集上の観察手順です。
